生徒との関係に悩む先生方、僕が「怒る指導」を手放すまでの話をさせてください

生徒との関係に悩む先生方、僕が「怒る指導」を手放すまでの話をさせてください

「ちゃんと指導しなきゃ」「舐められてはいけない」。そう思って、毎日気を張って子どもたちと向き合っている先生は、きっと少なくないと思います。

かつての僕も、まさにそうでした。怖い先生になろうと必死で、でも心の奥はずっとモヤモヤしていました。

この記事は、そんな僕が「怒る指導」を手放し、子どもとの関わり方が大きく変わるまでの話です。特別な指導テクニックの話ではありません。一人の教員が、二つの転機を通して指導観そのものを変えていった、その記録です。かつての僕と同じように、生徒との関係に息苦しさを感じている先生に、どうしても届けたい内容です。

この記事でわかること

  • 「厳しくすれば子どもは育つ」という思い込みが、なぜ先生と子どもの両方を苦しめるのか
  • 僕の指導観を根っこから変えた、二つの転機
  • 怒らず、対話で子どもの成長を支えるために、今日からできること

かつての僕は、「怖い先生」を目指していた

放課後の教室で硬い表情で立つ先生のイラスト

僕は以前、怒って指導することが当たり前でした。

なぜそうなったかというと、周りの先生がそうしていたからです。成り立ての頃、ベテランの先生や指導が上手いと言われる先生の学級が、落ち着いてきれいに回っている様子に憧れました。そして、そういう教室のひとつには、少し怖い雰囲気を持った先生がいました。学校で力があると言われる先生ほど、威圧的で、怒って生徒を動かしていました。僕はその姿に、どこか憧れすら抱いていました。「ああいう先生にならなければ」と。

だから僕は、真似をしました。どう怒れば生徒がビシッとするか、どんな雰囲気を出せば「怖い」と思われるか。そんなことを毎日考えながら、生徒と接していました。

でも、心の中にはいつもモヤモヤがありました。「どの基準で怒ればいいんだろう」「もっと怖いと思わせなきゃ」。そんな無駄な計算ばかりして、生徒とは常に駆け引きをしているような感覚でした。今思えば、良い関係なんて築けていませんでした。とても、嫌な毎日でした。

それでも僕は、「これが良い先生になる方法なんだ」と思い込んで、続けていました。

「厳しさ=正しい指導」という思い込み

怒る指導が生む悪循環の図
机に向かい思い悩む先生のイラスト

なぜ、あんなに苦しかったのか。今ならはっきり言葉にできます。

怒る指導には、見えにくい悪循環があるのです。

怒ると、まず自分が感情的になり、周りが見えなくなります。そして生徒は「恐怖」や「面倒くさい」を感じ、行動の目的が「怒られないようにすること」に変わってしまいます。本当は「やってみたい」から動いてほしいのに、「怒られたくない」から動く子になっていく。

しかも、恐怖で動かそうとしていると、生徒たちのちょっとした悪い行動ばかりが目につくようになります。良いところではなく、悪いところを探すような目で、毎日子どもたちを見ていた。今思い出しても、嫌な感覚です。

さらに、怒る指導には終わりがありません。遅刻した生徒に「罰として掃除を10分」と言えば、次に遅刻した生徒にも同じことをさせなければいけない。でも、遅れた度合いが違ったら?掃除の時間を変えるのか、どんな基準で?——そんなことに頭を悩ませる毎日でした。基準がブレれば、生徒から「なんで僕だけ」「私の時は掃除したのに」という声が上がる。公平であろうとするほど、苦しくなっていきました。

そもそも、子どもたちは何のために学校に来るのでしょうか。知識を得る、経験を積む、何かが上手になる——本来はそのためのはずです。なのに怒りと罰で縛ると、子どもの頭に刷り込まれるのは「怒られないように」「罰を受けないように」という目的です。

部活動では、それが目に見える形で表れていました。「そうじゃない」「何やってるんだ」と、試合中も練習中も、大きな声で威圧的に言っていた僕。そんなことを何度も言われていたら、思いっきりプレイできなくなるのは、当たり前です。子どもたちがのびのび動けないのは、僕がそうさせていたのでした。

表面上は、学級も部活も落ち着いて回っていました。だから「これでいいんだ」と思っていた。でも本当のところは、思い通りに動かして、うまくいっている自分を周りに見せたい——そんな個人的な感情が、そこにはあったのだと思います。

ここまで考えて、僕はようやく気づきました。怒るというのは結局、「短期間で、子どもを自分の思い通りに動かしたい」という、こちら側の都合だったのではないか、と。

転機①「楽しい」から始まる学びとの出会い

そんな僕が変わるきっかけは、二つありました。

一つ目のきっかけの入口は、思いがけず生まれた「余白」でした。世の中の動きが止まり、強制的に時間の余白ができた時期。僕はそこで初めて、立ち止まって自分と向き合いました。

向き合う中で、思い出したことがあります。僕自身、中学時代は怒られながら部活動をしていました。悪いことをすれば、罰として走らされ、掃除をさせられました。そして当時の僕たちは——先生がいなければ真面目にやらず、先生が来たら全力でやる、そんな毎日でした。恐怖で動かされていた僕らは、恐怖がなければ動かなかったのです。

怒る指導をしていた僕は、もしかしたら、自分がされてきたことを、そのまま子どもたちに繰り返していたのかもしれない。人は、自分がされてきたことを、無意識のうちに繰り返してしまうものなのだと思います。指導も、子育ても。だからこそ、一度立ち止まって過去と向き合うことで、そこから離れて、変わることができる。そう気づいたとき、「自分に正直に生きよう」と思いました。まず、怒ることをやめよう、と。

そして、その余白の中で出会ったのが、いくつかの本や実践でした。これまでの自分の指導を見つめ直すなかで、共通する一つの考え方に出会いました。「人は、楽しさやワクワクを感じるときにこそ、いちばん力を発揮する」という考え方です。

それは、子どもの主体性を引き出すことで成果を上げてきた、さまざまな現場の実践でした。厳しく管理し、長く負荷をかけることだけが人を伸ばす道ではない。むしろ、本人が「やってみたい」と思える環境をつくることこそが、いちばんの力になる——そう語る実践者たちの言葉に、僕は強く心を動かされました。

ここが、僕には衝撃でした。

「厳しく管理して、恐怖で動かす」。僕がやっていたのは、その正反対でした。でも、本当に人を育てている人たちは、相手の「楽しい」「やってみたい」という前向きな気持ちを引き出すことを、何より大切にしていた。

この出会いをきっかけに、僕は子どもが行動する理由を、「怒られないように」という後ろ向きなものから、「やってみたい」という前向きなものへ変えたいと、心から思うようになりました。怒ることが当たり前だった当時の僕にとって、これは指導の前提そのものをひっくり返す発想でした。

転機② 配慮を必要とする子どもたちが教えてくれたこと

子どもの話にゆっくり耳を傾ける先生のイラスト

もう一つの、そして決定的な転機は、とても配慮を必要とする子どもたちと、深く関わるようになったことでした。

さまざまな苦手を抱えた子どもたちがいました。失敗することも多く、周りから不当な扱いを受けてきた子もいました。そんな子どもたちに、怒って指導することには、まったく意味がないと感じました。怒っても、何も解決しないのです。

だから僕は、ただ聞くことから始めました。

どんなことならできるか。何が嫌なのか。なぜ、今そういう状態になっているのか。急かさず、ゆっくり、話を聞きました。「嫌だ」と言うことは無理にやらせず、本人の気持ちが整うまで待ちました。感情が高ぶって暴れてしまう子にも、こちらが落ち着いて、気持ちを受け止めながら関わり続けました。

そうしているうちに、少しずつ、子どもたちとの間に信頼関係が生まれてきたのを感じました。

この経験が、僕の指導観を根っこから変えました。「聞くこと」「待つこと」「対話すること」。それが子どもを動かすどんな言葉より力を持つのだと、頭ではなく、毎日の関わりの中で、体で理解したのです。

もう一つ、大きく変わったことがあります。昔の僕は、命令してやらせて、自分は見張りのように見ている——そんな関わり方でした。今は、一緒に取り組みます。楽しい活動も、少しきつい活動も、同じ立ち位置で一緒にやり、楽しさも大変さも共有する。そうやって、共に成長していく時間を作ることを心がけています。

指導観が変わって、見えてきた景色

笑顔で生徒と対話する先生のイラスト

二つの転機を経て、僕の指導から「怒る」がほとんどなくなりました。すると、あれほど溜まっていたモヤモヤが、すっと消えていきました。怒らない指導のほうが、僕自身にずっと合っていたのです。

そして、生徒への見方そのものが変わりました。悪いところばかり探していた目が、それぞれの良い面や強みを見つけるようになったのです。良いところが見えると、前向きな声かけが自然と増えていきました。

具体的な場面で、お話しします。

遅刻してきた生徒には、まず「何かあった?」と聞くようになりました。考えてみれば、無事に来られたことが、まず何よりです。「お腹が痛くて」など理由があれば、そのまま参加させます。基本的に、子どもの言葉を信じます。疑い出したらキリがないし、疑われて良い気持ちのする人は、いないからです。信じて関わっていると、子どもたちは正直に話してくれるようになります。

ある日の部活動で、連絡もなく集合時間に遅れてきた生徒がいました。理由を聞くと「寝坊しました」と。

以前の僕なら、迷わず怒鳴って、罰として掃除をさせていたと思います。でもその時の僕は、こう言いました。「わかった、次から気をつけよう。ただ、できれば連絡だけはしてほしいな。先生、心配するから。よろしくね」と。

それからも、その子がたまに遅れることはありました。でも、ほとんどの場合、ちゃんと連絡を入れてくれるようになりました。

遅れてきた時点で、本人はもう「申し訳ない」と思っているのです。だから、怒らなくても、子どもは自分で行動を改善していく。そして、その先に「楽しい」「やってみたい」という活動が待っていれば、もっと頑張ろうとする。

もう一つ意識しているのは、「子ども自身に決めさせる」ことです。以前の僕は「これをしなさい」とトップダウンで指示していました。今は「こういう状況だから、これか、これをしたらいいんじゃない?」と提案し、最終決定は子どもに任せます。自分で決めたことには、責任とやる気が生まれます。人は、自分で決めたことにこそ、主体的に取り組めるのです(心理学では「自己決定理論」と呼ばれる考え方です)。

口を出す回数も、意識して減らしました。先生はどうしても、あれこれ教えたくなる生き物です。でも、子どもが自分でやろうとしているときは、こちらは見守り、聞かれたら答えるくらいでちょうどいい。主役は、いつも子どもなのですから。

まとめ:子どもを「動かす」から、成長を「見守る」へ

かつての僕は、子どもを思い通りに「動かす」ことばかり考えていました。今の僕は、子どもの成長を「見守る」ことを大切にしています。

この変化の根っこにあるのは、たった一つのシンプルな問いです。「この関わりは、本当に子どもの成長のためか?それとも、自分の都合のためか?」

怒りたくなったとき、強く言いたくなったとき、その裏に「思い通りに動かしたい」という自分の気持ちが隠れていないか。一度立ち止まって考えてみる。それだけで、関わり方は変わっていきます。

そしてもう一つ、この変化を経て、心の底から感じていることがあります。それは、自分の価値観に正直に生きると、生きるのがすごく楽になる、ということです。

かつての僕は、本当は怒るのが嫌いなのに、怒っていました。自分の価値観に合わないことを、「良い先生になるため」と自分に言い聞かせて続けていた。正直に生きていないと、どこかで歪みが生まれます。あのモヤモヤの正体は、きっとそれでした。

今は、自分の価値観に、わりと正直に生きられています。怒りたくないから、怒らない。対話したいから、対話する。それだけのことで、生きるのがこんなに楽になるのかと、驚いています。

怒らない関わりは、子どものためであると同時に、僕自身の心に余白をくれました。基準に悩まず、駆け引きをせず、悪いところを探さない毎日は、こんなに軽いのです。

子どもも、一人の人間です。話を聞き、待ち、対話しながら、成長を見守っていく。そうすることで、子どもがのびのびと力を発揮しはじめるだけでなく、僕たち自身も、ずっと穏やかな気持ちで過ごせるようになります。

もし今、生徒との関係に息苦しさを感じているなら。まずは小さなところから、「怒る」を手放してみませんか?

具体的にどう関わっていけばいいのか、もう少し踏み込んだ話を、二つの記事に書いています。よければ、こちらも読んでみてください。

人間関係の悩みは、生徒とのことだけではありません。同僚、管理職、保護者——先生の毎日は、たくさんの関係の中にあります。それらについても、これから少しずつ書いていくつもりです。まずは、毎日いちばん長く向き合う子どもたちとの関係から。

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